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分水嶺の北側

                C-9 市川 熹

 蓼科山には「ヒジンサマ」という名の山神が住んでいるという伝承があります。姿は黒い雲に包まれた球状で、その下には赤や青のビラビラしたものが下がっており、空中を飛ぶと言われているそうです。ヒジンサマが山を通ると人々は山仕事をやめるそうです(金子総平「ビジンサマ」、『民間伝承』第6巻第8号、民間傳承の会、1941年、 7頁に出ているそうです)。台風など天候不順の時の山岳地帯での危険回避を促す知恵なのかもしれませんね。
 蓼科山は、南側が茅野市、北側が立科町に属している標高2530.3mの八ヶ岳連峰山系の成層火山で、日本百名山のひとつであることは皆様良くご存じだと思います。江戸時代の記録(蓼科山略伝記)では、頂は常に氷雪積もり、旧暦6月にようやく消え、8月には又降るため、参詣は6月8日から28日までに制限され、潔斎して登山しなければならず、女人は禁止されていたようです。「高木神」が山頂の祠に祭られています。高木神は、神話に出てくる造化の三神、天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神の中の「高皇産霊神」(タカミムスビ、高木神、皇室の至上神。「創造」を神格化した神)で、この三神は性差の無い、人間界から姿を隠している「独神」といわれています。しかし山の姿がやさしいため、現代では女神にされているようですね。
 その蓼科山は、太平洋側と日本海側を分ける分水嶺となっています。八ヶ岳から、双子山、大河原峠、蓼科山、スズラン峠(旧名大石峠)、八子ヶ峰、三本松(白樺湖から蓼科牧場方向に県道40号線(ビーナスライン)をちょっと登ったところ)、大門峠、車山北側の山彦尾根大笹峰、鷲ヶ峰、和田峠、扉峠、美ヶ原にかけた線です。
 茅野市は旧地名でいえば諏訪郡にありますが、北側の隣接地には北佐久郡や小県郡があります。北佐久郡には立科町(旧芦田村、三戸和村、横鳥村、望月町の一部が合併。もともと立科が蓼科より古い地名)が、小県郡には長和町(長門町と和田村が合併)などが隣接しています。佐久や小県が概ね日本海側に、諏訪は太平洋側に雨水が流れる区域になります。気候もこの線で変わり、雪の降り具合も異なるように思います。TVの全国の天気予報も、長野県は長野市の情報で代表されますが、日本海寄りの予報で、別荘地は太平洋側、東海地方の天気に似ています。積雪時期も長野市よりも、むしろ東京に近い春先ですね。
 別荘地の北隣であるこの分水嶺の北側の地域を中心に、ご紹介しようと思います。

 別荘地の事務所から立科町の方向にビーナスラインを登ってゆくと別荘地北側の入口のある竜源橋から蓼科山登山口(多分蓼科登山には直登に近い一番急登な登山道の口)、スズラン峠(本来は大石峠と呼ばれ、観光用に命名されたもので、スズランはありません)を経て南平の分岐点に出ます。
 竜源橋からは、滝の湯川に沿って間道を登ってゆくと大河原峠に出ます。信濃の国における古東山道(律令制以前の東山道)の位置は明らかではなく、諸説があるようですが、親湯が古くから開けた土地として坂上田村麻呂が発見したという伝説もあり、この道であったのではないかと故一志茂樹博士(元長野県文化財保護審議会会長)は考察していたそうです。しかし律令制以前と田村麻呂の時代(平安時代)の差が気になるところです。東山道は西海道に次ぐ2番目に重要な街道(いわば国道2号線)といわれています。
 この間道の途中、天祥寺ヶ原(名前の由来は知りませんが、人の気配も少なく、のんびりとした気持ちの良い高原です)から分岐点を左に行くと蓼科山山頂下の将軍平小屋に出ることができます。間道をもう少し先に進み、分岐点を右に取ると亀甲池から双子池に出ることができますし、亀甲池からは大変急な登山道ですが、北横岳へと行くこともできます。双子池からは北横岳をまいて雨池へと行くことができます。雨池への道は林道で砂利の平坦な道です。
 大河原峠からの蓼科山登山は、ちょっと距離があるのですが、比較的傾斜が緩やかで、将軍平に出ることができます。私はかつて幼稚園の年少組の長男を連れて、このルートから蓼科山に登ったことがあります。泣きながらついてきたのですが、帰京後幼稚園で雷さんより高いところに行ったと自慢していた様です。
 南平には「べてーじん(弁天神)」とよばれる綺麗な湧水があるのですが、水源保護のため立ち入りができません。南平はビーナスラインの峠から見下ろすと平坦な森に見えますね。50年ほど昔は水芭蕉のある湿原でしたが、植林が育ち、その面影は全くなくなってしまいました。
 南平から右に行くと、蓼科牧場に出ます。
蓼科山の北麓一帯は昔から朝廷の牧場(御牧)として有名で、望月の牧からも毎年数十頭の名馬が調達され、天皇の御覧に供されました(駒牽)。そこでの伝承を紹介しましょう。

 蓼科牧場の直ぐ先、左側に女神湖(もとは「赤沼」と呼ばれた湿原で、食糧増産のために造られた人工湖です。最初に試みられたときには水が漏れてしまい、作り直したそうです)があります。
 女神湖の近くに「鍵引き石」という岩が六川道(県道40号線)沿いにあります。望月の牧場から諏訪に行くには、中山道や大門街道はやや遠回りで、和田峠など、厳しい峠もそれぞれ2つ越えなければならないのに対し、六川道は狭い道ですが、便利で、通る人も多かったそうです。しかし、赤沼に住む河童が「鍵引き石」に出没し、通りがかった人の馬の「尻こだま」をぬいて食べるため、人々は大変困っていました。河童は馬の手綱に鍵を投げてひっかけ沼に引き込むのだそうです。
あるとき庄屋に馬を運ぶようにと善助爺さんと柏原の作蔵が頼まれました。善助爺さんは芦田で所要があり、作蔵は先に行くことになりました。作蔵は力持ちで評判でしたが、途中操作ミスから手綱を切ってしまい、裸馬で通りかかりました。河童はやむを得ず鍵を投げて作蔵の腕にひっかけ引こうとしましたが、馬が驚いて駆け出し、作蔵は馬の尻尾にしがみつき、半町ほど河童も引きずられました。河童は弱ったところを作蔵に組み伏せられてしまいました。後から来た善助爺さんの提案で、今後このような悪さはしないと証文を書かせ、恩を売り逃がしてやったそうです。その後河童は現れず、安全に通れるようになったそうです。

「赤沼の河童」には、諏訪頼遠に力比べをして負けたなど、他にも別伝があります。

 話しは先走りますが、和田峠の厳しさを裏付けるものとして、峠の深沢地区に「接待」と呼ばれる場所があります。江戸時代に日本橋馬飼町の綿糸問屋中村有隣という人が、その難儀さを見かねて休憩所を作るようにと、幕府に千両を寄付、幕府は尾張藩に運用を委託し、毎年利息百両を二分して、1827年から明治3年(廃藩置県)まで、和田峠と碓氷峠の休憩所支援に活用したのが「接待」という呼び名の起源だといわれています(和田村資料から)。東海道は伊勢湾や多くの大河を渡り、箱根を超えるなど、必ずしも便利ではなく、東山道や中山道が東国への主要道路だったことを反映しているエピソードですね。
 蓼科牧場からは、右に林道を登ってゆくと御泉水、鳥居のある蓼科七合目(これも観光目的で「七合目」とされたようで、ここから鳥居をくぐって登山道を登ってゆくとその上に五合目という標識が出てきます!)を経て大河原峠に出ます。蓼科牧場からは赤谷を経て大河原峠までも諏訪バスが入っていたのですが廃止になってしまいました。その先は佐久平方向ですが、私は行ったことがありません。
 御泉水までは蓼科牧場からゴンドラで登ることもできます。御泉水に入らずに右手前の間道を通ると七合目に行くことができます。七合目からの蓼科登山道の途中には「馬返し」や、見晴らしの良い「天狗の露台」というガレ場があり、さらに登ると将軍平に出ます。蓼科登山では「天狗の露台」で休憩するのが楽しみでした。蓼科山山頂から御来光を見るために夜中に登山を開始し、将軍小屋で休憩して山頂に行くなど、この小屋には何度も御厄介になったものです。早朝の山頂では「ブロッケンの妖怪」(自分の影が反対側の雲に映る現象)を見られることもあります。
 御泉水は、もともとは蓼科牧場に放牧されている牛の水飲み場で、観光を目的に整備されたものです。私が初めて訪れた時は、蓼科牧場は現在のようには観光牧場化しておらず、第2牧場と同様に普通の牧場で、御泉水のところにも牛が水を飲みに登ってきていました。
 七合目の鳥居とは反対側の間道を降りると気持ちの良い湧水があります。この水は「蓼仙の滝」に繋がっていますが、この滝へは急な道を降りなければなりません。
南平から蓼科牧場への道は、蓼科牧場で白樺湖から小諸方面に抜ける県道40号線に合流します。県道40号線(白樺湖小諸線、実延長80㎞弱、長野県で最長の県道。六川道(ろくがわみち:六川(ろくがわ)源五右衛門が明治時代に馬車が通れる程度に拡幅したので、地元ではこのように呼ばれる。誤って「ろくせんどう」とも。)は芦田で中山道と交差します。望月(中山道25番目の宿場)、芦田(26番目)、和田(28番目)などは諏訪に通じる中山道の宿場町です。武田信玄が北信地区に進出する話しには良く出てくる地名です。「棒道」はこの方面に武田軍が進軍するための軍用道路です。そういえば、白樺湖から流れ出る「音無川」は、信玄が「うるさい、だまれ!」と言ったので静かになったという言い伝えから付いた名前だと聞いています。
 宿場町である芦田(本陣土屋家の客殿(1800年ころ建設)は原形で一般公開されている)には、古い旅籠の「金丸土屋旅館」があり、先代のご主人は数年前に亡くなられましたが、代が替り、最近浴場などを改装している(7月完成予定らしい)とかで、この会報が出るころには営業を再開していると思います。
 蓼科牧場から芦田までの途中には、「鍵引き石」の他に、「鳴石」、「与惣塚」、「雨堺」(古くは「天坂」)などの地名が出てきます。
 鳴石(鏡石とも呼ばれている)は鏡餅状に重なった二個の巨石です。昔、風が強く吹けば鳴ったため、このように呼ばれ、この石が鳴るときは、必ず天気が悪くなるといわれているそうです。

ある時、石工がこの石を割ろうとして金槌で二つ三つ叩くと山鳴りがして地震が起き、たちまち火の雨が降り、石工はもだえ苦しんで死んでしまったので、この事があってから、強く叩くことはいけないとされています。柔らかく叩くと鈴のような音がします。鳴石は大和の王権による東国の制覇が一段落し、大和と東国の交流、東西の交易が盛んになった6~7世紀頃に蓼科の神を祀る祭祀の場として古東山道の交通の要衝に築かれたものと考えられています(立科町資料から)。

 「雨堺」(古くは「役の行者越え」「天坂」)付近は祭祈に用いる勾玉の滑石製模造品等が出土することから「勾玉原」と呼ばれています。この「雨堺」は諏訪・白樺湖方面からの雨雲の移動経路ともなっているようです。白樺湖方向に黒雲が見えると直ぐに雨や雷が来ます。
 「赤沼の河童」伝承に出てきた「鍵引き石」も実は旅人の安全を願った祭祈遺跡ではないかといわれています。このように見てくると、「六川道」が律令制以前に設定された古東山道であった可能性があるのではないでしょうか。
 逆に蓼科牧場から白樺湖方向へ県道40号線を行くと、途中に箕輪平というところがあります。このあたりには、蓼科山からの湧水を遥か下流の水田の灌漑用水として引かれた水路が何本もあります。「堰(せんぎ)」とよばれ、「塩沢堰」、「八重原堰」などがあります。17世紀前半の寛永年間に起工され、慶安年間、家光の時代にようやく完成したようです。今日まで300年も利用され続けていることになります。私が利用した「宇山堰」は、町営水道が引かれ、残念なことに昭和43年に廃止になりました。
 箕輪平から蓼科山方向に分け入る間道があり、そこを行くと諏訪大社上社の御柱祭に切り出された御柱の切り株を見ることができます。さらに進めば、「五社大神」(石でできた地蔵のような神様が「塩沢堰」のわきに祭られている)を経て「馬返し」に出る登山道になります。「五社大神」の近くには、国有林の山火事などを監視する「番小屋」があります。この付近ではキャンプファイヤなどをするときには事前に連絡することになっていると思います。
 箕輪平と白樺湖の間の六川道沿いに「六千尺ホテル樽が沢温泉」という古い旅館がありました(私が蓼科付近で最初に宿泊したところです。現在は建物はありますが廃業したようですね)。多分「六川道」の「六川(ろくがわ)」を「ろくせん」「六千」と読み替えて命名したのだろうと思います。実際は地図を見ると、海抜六千尺とは一致しません。
 以前は白樺湖から蓼科牧場を経て小諸まで国鉄バスがありました。長野新幹線完成後は白樺湖から佐久平まで千曲バスありましたが、いずれも最近ではなくなり、現在は立科町立のマイクロバス(「たてしなスマイル交通シラカバ線」(愛称「おやまちゃんバス」)が主に通学生を対象に白樺湖から芦田の間を走っています。本数は少ないのですが、シーズンの休日は増便があります。
 途中に長門牧場などもあります。長門牧場はアイスクリームや自家製のパンなども発売しており、南東に蓼科山とその尾根にある「竜が峰」を見渡せる、広々とした気持ちの良いところです。

 竜が峰にまつわると思われる伝承もあります。

立科山の麓に甲賀一郎、二郎、三郎が住んでいました。三郎の妻は非常に美人で、兄達はねたみ、三郎を亡き者にしようとし、立科山山中の人穴の中の宝物を取りに行こうと誘った。三郎に藤の蔓を使い穴に降りるように命じ、三郎が穴人に入っていくと山刀で蔓を切り、帰ってしまいました。
三郎は気がつくと老婆がいて、餅を与えられ元気が出てきたので、老婆の指示した方向に歩いてゆくと、娘たちに出会いました。その案内で大きな屋敷に連れて行かれ、そのお嬢様と結婚し、幸福な生活を送りました。
しかし現世が懐かしくなり、妻に話して了解を得、旅に出ました。現世の国の出口は浅間山の麓の真楽寺の池でした。池から顔を上げると、池の端の子供たちが「龍だ」といって逃げて行ってしまいまし。妻を一目見ようと立科山腹まで行くと、妻の泣声が諏訪の方から聞こえてきました。彼女は三郎が戻らず、悲しんで諏訪湖に身を投げてしまっていました。三郎は諏訪湖に行き、妻と会うことが出来ました。冬の諏訪湖の氷の山脈は妻に会いに行った跡で、三郎の龍と妻が諏訪大社の主神だといわれています。

 芦田から更に県道40号線を北に向かうと千曲川を超えて小諸に出ます。小諸には島崎藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く・・・」という詩で有名な懐古園があります。昔は小諸駅に半紙に筆で書かれた「熊に注意」という張り紙が時々見られましたが、最近がどうなのでしょうか。そういえば、その頃(約50年も前の学生時代)、友人が大石峠(すずらん峠)で熊にあったと逃げ帰ったり、蓼科牧場に捕獲された小熊が檻に繋がれたりしていた時期もありました。
 千曲川には微笑ましい言い伝えがあります。

日本海に飽きた夫婦のクジラが小海の良さの噂を聞き、行こうということになりました。信濃川を遡り、千曲川に至ったのですが浅くなり、泳ぐのが困難になってきました。そこで一頭が横になって川の流れを堰き止め、もう一頭が水深の深くなった千曲川を泳ぎ、それを交互に行って登って行ったが、途中漁師に小海は海ではないと言われ、がっかりして日本海に戻ったという話しです。

 南平からビーナスラインを左に行けば、三本松を経て白樺湖(昔は蓼科大池と呼ばれた灌漑用の人工湖。実際にせき止めた時に水に浸かった白樺が水面から出ていたので、白樺湖と改称された。その後決壊し、空気にさらされたため腐り、現在では湖面からの白樺は見られなくなった)、さらには車山、霧ヶ峰、鷲ヶ峰、扉峠、美ヶ原方面につながっています。白樺湖には冬は天然のスケートリンクがありましたが、遊園地や駐車場になってしまいました。
 白樺湖から大門街道(国道152号線)を北に行くと、「仏岩」というところがあります。ピークには鎖やはしごを登る必要があり、東側は絶壁です。学生の頃後輩と出かけ、滑落しそうになったことがあります。
 さらに街道を進むと、一昔は繊維工場で栄えた丸子を経て真田幸村などで有名な上田に出ます。上田周辺には別所温泉など数多くの温泉地があります。別荘地で見ることのできる地元テレビ局の解説者などに長野大学の先生を見かけますが、上田電鉄別所線の大学前にあります。社会福祉学部と環境ツーリング学部からなり、一度訪問したことがあります。信州大学の繊維学部も上田市にありますね。
 白樺湖に戻り、車山方面に向かってみましょう。
 七月の車山付近は山一面にニッコウキスゲが咲き乱れ、素晴らしい景観を作っているのは有名ですが、八月のマツムシソウもまた見事です。マツムシソウは紫色の花で葉の緑に沈むため、ニッコウキスゲのような派手さは無いように思われるかもしれませんが、目線を花の高さに下げて斜面をみると、一瞬に斜面が紫色の世界に見事に変わります。
 車山には「オカンばば」という伝承があります。柏原の若者が車山に薪を取りに行ったときに、「ばば」に手紙を届ける使いを頼まれて目をつぶっていると、八ヶ岳の頂上と往復したというような話です。「オカン」は蓼科の麓の湯川村の天狗にさらわれた娘だという別伝もあります。
 車山ではハングライダーの講習会などもしていますね。さらに進むとコロポックルというところに来ます。その名前の謂われは判りませんが、アイヌ語でしょうか。その先に行くとグライダーで有名な霧ヶ峰や、「油氷」という良質の氷が張り、かつてスケート練習場としてオリンピックの選手が合宿した「蓼の海」等があります。
 しかし、コロポックルからは高原の間道を、車山湿原を経て、八島ヶ原湿原に向かって散策するのも気持ちの良いコースです(夏は木陰が少なく、ちょっと厳しいです)。
 途中に旧御射山(もとみさやま)遺跡があります。三角形の盆地状の場所で、周りに数段の観客席の石組が囲んでおり、鎌倉時代に流鏑馬などを行った競技場跡と言われています。草で覆われ、良く見ないと判りにくく、オリンピックの遺跡のようには大規模でも派手ででもありませんが。観覧席の西側が甲州桟敷、南側が信濃侍桟敷、北東側がメインで勅使や鎌倉御家人などの桟敷となっていたようで、7月下旬に年に一度実施したそうです。
 八島ヶ池は浮島で有名な湿原ですね(国の天然記念物)。この先は鷲ヶ峰を超えて和田峠とその先の扉峠に出ます。扉峠からは松本に降りるルートがあります。

 ここにも伝承があります。

昔、霧ヶ峰東俣(八島ヶ池の西、観音沢、諏訪大社下社の御柱の育成地)の谷間に絶世の美女「カキツバタ」が、大笹の谷(エコーバレー付近)にたくましく端正な容貌の若者「山彦」がいました。二人は好意を寄せ合っていました。ある日二人は、旧御射山(もとみさやま)の湿原でぱったりと出会いました。お互いをほめあいましたが、自分の姿を見たことがありませんでした。
そこで池に自分の姿を映してみようということになりまた。先ず山彦が池に映してみましたが、風で漣が立ち、鬼のような形相が映りすっかり悲観してしまいまた。次にカキツバタが自分を映したところ、その美しさに見入ってしまい、たたずんでいるうちに根が生えて「かきつばた」になってしまいました。山彦は悲観して大笹の谷に身を投げ、行方しらずになってしまいました。

 今でも八島湿原に「カキツバタ」が咲き、山彦谷(エコーバレー上部)の殿城山側(分水嶺の蝶々深山の東)に山彦の声が残っていて、呼びかけると山彦の声を聞くことが出来ます。山彦の顔を映した池は「鬼の泉水」という名前で残っているということです。
 和田峠付近には、日本有数の黒曜石の産地である「鷹山」の「星糞(ほしくそ)峠」があり、縄文時代に全国で用いられた黒曜石の産地として有名です。世界最古の鉱山とも言われているようです。新和田峠トンネル有料道路と大門街道(国道152号線)をつなぐ県道155線の途中にあります。この遺跡は平成13年に国指定遺跡となっています。黒曜石は鏃や刃物に加工されました。鷹山遺跡の中には明治大学の「黒曜石研究センター」があります。長門町が管理している資料館は「原始・古代ロマン体験館」は、遺跡よりもだいぶ北の大門街道沿いにあり、車で20分ほど遺跡は離れているそうですが、私は未だ行ったことはありません。また、有料道路から県道155線への入口付近は男女倉谷と呼ばれ、後期旧石器時代の遺跡といわれ、石器が20ヶ所以上から発見されているそうです。
 なお私は、未だ別荘を建てる前の、ずいぶんと昔のことですが、家内とたまたま美ヶ原に向けて和田峠を通りかかり、有料道路の料金所の方に教えられて、料金所の裏の和田峠のトンネル工事の土の中から黒曜石を拾いました。現在でも私はそれを別荘に置いています。
 さらに進むと美ヶ原に出ます。白樺湖から美ヶ原へもバス路線があったのですが、赤字で廃止になってしまったのが、車を使わない私には大変残念です。美ヶ原には彫刻美術館があると思いますが、最近はバスが無くなり、行けていません。
 思いつくままに書いてきましたら、長くなってしまいました。記憶の怪しいところは地元の町史や古本、ネットからの情報で補った部分もあることをお断りいたします。
 何か所かで触れたように、かつては諏訪地域と北佐久や小県との間には幾つかのルートでバスが通い、一体的でした。しかし、利用客が少なかったため、これらのバス路線も次々に廃止され、観光協会の案内もお互いへの言及や関連情報の提供が少なく、ばらばらになっています。これらのことが悪循環を招き、別荘の運営主体であるアルピコの体力を落としているのではないでしょうか。高齢化が進むと、現在自家用車で来ている別荘住人も、中央線特急「あずさ」や長野新幹線とバスを利用する方向に移るものと思われます。我が家もそのようにしてアルピコバスを毎回利用しています。地元には先を見通した地域活性化の総合的戦略立案と、その実行を考えて欲しいと思います。



分水嶺の南側とミシャグチさま

              C9 市川


昨年の「分水嶺の北側」に続けて南側もという役員会からのお話があり、僭越ながら幾つか紹介したいと思いまあす。

 当別荘地のキャッチフレーズに、「蓼科を愛する人の蓼科」というのがありました。このところ見られなくなったのは残念ですね。

先日読んだ小説「霧の子孫たち」(諏訪出身の作家新田次郎による)は、「旧御射山(もとみさやま)」などがある霧ケ峰の中を「ビーナスライン」を通す工事に対し、遺跡や自然を守るための地元諏訪の人々の運動をまとめた実際の話です。「霧ケ峰の自然と歴史を愛する諏訪の人々」の活動が書かれています。「蓼科を愛する人の蓼科」という言葉を思い出した所以です。

この地域は、なんといっても、棚畑遺跡の「縄文のビーナス」(1986発見、1995国宝)や、中ッ原遺跡の「仮面の女神」(2000発見、2006国重要文化財)、尖り石縄文考古館などがある尖り石遺跡など、縄文遺跡が注目されます。この地区の遺跡には動物を捕獲するための落とし穴も多数見つかっているそうです。もっとも落とし穴は全て縄文のものだけではなく、鎌倉時代くらいまで色々あるようです。

またもう一つの話題の中心は、御柱で有名な諏訪大社とその関連する霧ヶ峰高原、諏訪湖でしょう。

信玄との関連はちょっと顔を覗かせる程度です。また「小津安二郎・野田高梧有縁の碑」や文人・映画俳優等の別荘、蓼科が全国で最も湿度が低い地域ということで皇紀2600年を記念して朝日新聞社が新聞などを記録として保管しているキノコのような白い建造物(文化柱)、蓼科湖の裏山の中腹の洋館のトヨタ記念館と旧東洋観光の蓼科開発などの話題、その他万治の石仏などいろいろありますが、話が発散しますので省略したいと思います。

この地区の様々な伝承は、この「諏訪大社」の神話と縄文時代からの神と思われる「ミシャグチ」が、後述するように神話時代から現在に至るまで様々に絡み合ったものになっているようです。本稿では、この視点を中心に紹介してゆきたいと思います。

しかし、話は複雑に絡んでいるので、初めに簡単に関係を整理しておきます。

先ずは、製鉄技術を背景としたと思われるヤマト朝廷と出雲、諏訪の勢力争いと思われる神話です。その結果として、諏訪大神と縄文時代からの地元勢力の古代の神「ミシャグチ」との平和共存が現在まで続き、諏訪大神を表に建てながらミシャグチが実権を持っていること、ミシャグチは霧ヶ峰の遺跡「旧御射山」と御射山社と関係が深いことがあげられます。また偶然だと思いますが、この神話は不思議なことに、日本の地学上の大きな構造である中央構造線とフォッサマグナとの関係が見出されています。中央構造線は大きく日本の地質を北と南に分けており、フォッサマグナは静岡から糸魚川の間を通る南北の大きな断層として有名です。両者は諏訪湖のところで交差しています。

さて、霧ヶ峰高原には「旧御射山(もとみさやま)」遺跡があります。諏訪大社との関係が深く、各地に御射山社がありますが、上社関連の御射山社はJR「すずらんの里」駅近くにあり、下社関係の御射山社は旧御射山から江戸時代初期に武居入に移されています(そのため「旧」が付くのでしょう)。

「旧御射山」では、平安初期に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために信濃に来た際に、諏訪明神が騎馬武者に変身し軍を先導、蝦夷の首領を射落としたという伝承から鎌倉時代ころより流鏑馬などの競技が行われるようになったようです。三角形の盆地状の場所で、周りに数段の観客席の石組が囲んでおり、鎌倉時代に流鏑馬などを行った競技場跡と言われています。草で覆われ、良く見ないと判りにくく、オリンピックの遺跡のようには大規模でも派手ででもありませんが。観覧席の西側が甲州桟敷、南側が信濃侍桟敷、北東側がメインで勅使や鎌倉御家人などの桟敷となっていたようで、7月下旬に年に一度実施したそうです。長径350m、短径250mで、3方に観覧席があり、国立競技場より大きく、3.5万人~10万人収容できたとの伝承もあり、東京オリンピック前に大きな話題になりました。

霧ケ峰の麓は諏訪大社下社の御柱の育成地でもあり、さらに霧ケ峰湿原は、尾瀬と共に国から指定された天然記念物(1939年、1960年)で、その動植物は非常に貴重なものとなっています。人の立ち入りなどは、遺跡の破壊や貴重な植物の絶滅などの危惧があるということもあって、諏訪の人々はビーナスラインの建設に反対しました。初めに触れた「霧の子孫たち」は、この運動を小説化したものです。霧ケ峰は諏訪人にとっては特別に思い入れの強い地となっています。諏訪教育会では、1975-1983年にかけて「諏訪の自然」地質編、動物編、植物編、陸水編、気象編を編纂発行しており、霧ケ峰の植物リストなどを掲載していることからも窺えます。

 話しの本筋からは外れますが、閑話休題、霧ヶ峰には「ヤマウバになったムスメ」という伝承を紹介しておきましょう。

 「蓼科高原麓の湯川村にオカンという娘がいた。ある日野良を歩いていると天がにわかに掻き曇り、黒雲の中から天狗がいきなり飛び出し、オカンを抱えて消え去った。何時までたってもオカンが帰らないので大騒ぎになったが、やがてあきらめられ、忘れられてしまった。

 50年ほどもたったころ、ある夜異様な叫び声に村人は起こされた。何日も続くので村の若者が総出で声の方向に行くと、車山の頂上からであった。一人の勇気のある若者が近づくと白髪の老婆が現れた。老婆は「俺は湯川の出だ。50年間今まで天狗が湯川を荒らすのを防いできた。お前らの犠牲になったのだから食べ物をささげろ。腹がすいたから叫んでいたのじゃ」といって、頭上を飛び越えて消えた。

 若者は村に帰って老人たちに話すと、「オカンが生きていたと。天狗の犠牲になっていたと。食べ物をささげねば。」そこで村人は沢山の食べ物をもって車山に登り、置いて帰ったところ、その叫び声は聞こえなくなったとのことである。」

 オカンに関してはまた別の伝承もあります。

 「柏原の若者が車山に薪を取りに行ったときに、「ばば」に出合い、手紙を届ける使いを頼まれて目をつぶらされ、目を開くいと八ヶ岳の頂上にいて、手紙を渡し、再び目を瞑ると車山に戻っていたということです。」

 この「ばば」は「オカン」だと言い伝えられています。

 さて諏訪大社ですが、良く知られているように上社の前宮と本宮、下社の春宮と秋宮からなっています。元々は別の神社だったのではないかと言われています。上社は出雲形式(本殿が無く、御神体は背後の山や木など自然物)なのに対し、下社の一つはヤマト朝廷系の形式(本殿がある)であり、神官最上位の大祝(オオホウリ)も、かつて上社は出雲系の諏訪氏、下社はヤマト出身の金刺氏(現在は共通で、一人の大宮司)だったそうです。

 諏訪大社の行事として有名なのは、何といっても御柱でしょうね。長野オリンピックの開会式でも披露されました。7年に一度(数え方式なので、実は6年毎)に行われ、1200年以上の歴史があるそうです。正式には「式年造営御柱大祭」とよばれ、過去には曳建だけでなく、建物の造営も大掛かりに行われたようです。しかし現在は財政的問題もあり、例えば平成16年には、上社本宮と下社春宮・秋宮の宝殿のみが建て替えられたことのです。一方現在では御柱の意味は失われ、様々に解釈されています。上社では4月最初の金土日に「山出し」、5月ゴールデンウィークに「里曳き」、6月下旬に「宝殿遷座祭」が行われています。それぞれ下社は上社の1週間後に行われます。

 特に「山出し」では、上社の「川越し」と下社の「木落とし」が危険なものとして注目されます。例えば現在では、「川越し」では周囲で密かに潜水夫が警戒に当たっているのが伺えます。「川越し」で公式発表では負傷者となっている方の中には、実は後日亡くなっている方もいたと地元の方から聞いたこともあります。

茅野駅の中央線東京よりの川のすぐ横に上社の御柱の「木落し」の斜面があります。坂を落とされた柱は前宮方向に曳かれてゆきます。中央高速のすぐ下で「川越し」が行われますが、その先、16号線を諏訪湖方向に行くと、左手に奇妙な建物があります。工業的に加工した素材を極力廃した板壁と土を用い、屋根からは薙鎌が突き出た建物です。江戸時代まで上社神長官を務めた守矢家の文書を保管・公開している神長官守矢資料館です。地元出身の有名な建築家藤森照信氏のデビュー作品だそうです。鹿の首(後述)なども展示されており、ちょっとびっくりさせられます。

諏訪大神(建御名方(タケミナカタ)神)は、天照大御神(伊勢神宮の主神)に命じられ出雲の「大国主命」に国譲りを求めてきた「建御雷(タケミカヅチ)之男神」(鹿島神宮主神)に抵抗して敗れ、諏訪に逃げてきた大国主尊の子供と言われています(日本書紀には記載がなく、古事記にも親子関係は書かれておらず、別の伝承)。なお、全国の神様が縁結びなどの計画協議の為に出雲に集まる10月は神無月とも言いますが、建御名方神は今後信濃から出ないと建御雷之男神に誓ったため、彼だけは諏訪に残るという伝承もありますね。それにしても古代に、なぜ遠い鹿島から出雲へ説得に行かせるというような発想がなされたのでしょうか。

 先に中央構造線とフォッサマグナに関係があることに触れました。実は伊勢神宮、諏訪大社、鹿島神宮がこの中央構造線上にあるのです。中央構造線は九州山地、四国山地、近畿山地、渥美半島、明石山脈西側を経て、高遠の方から国道152杖突街道に沿って諏訪大社上社前宮辺りまで来ています。そこでフォッサマグナの断層活動により、岡谷の横河川付近まで約12㎞西にずれています。そのずれた先の付近に下社があります。中央構造線の岡谷から先は関東山地北側をグルッと回って実に鹿島神宮辺りに達しているのだそうです(北関東での位置は産業技術総合研究所がボーリングして地質調査し2006年に報告)。逆に中央構造線を南に方にたどると渥美半島を経由し、なんと伊勢神宮付近を通ります。なんとも不思議な縁です。

 また、この12㎞のずれを戻して繋げてみると、中央構造線とフォッサマグナ交点の対角位置に上社と下社は接して向き合い、結びつけるかように存在しています。この「ずれ」の12㎞は、120-150万年かかったと推定されているそうです。人類が誕生・進化したと推定される期間ですね。縄文人が日本の地学的構造を知っていたとはとても考えられないのですが、偶然なのでしょうね。

 諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナが交差し、ずれた場所に位置していることになり、昔は現在の3倍もある広い湖だったそうです

話しを戻しますが、建御名方神に抵抗し敗れた縄文時代からの地元諏訪のモレヤ(モリヤ)族の長の末裔が守矢家で、モレヤ族が祭っていた神はミシャグチ様(様々な自然神、精霊)と呼ばれています。

先述の小説の中の会話に「看護婦長はモリヤ族だ」という記述が説明もなく突然出てきますが、こう見てくると、その意味が判ります。また、「御射山」は「ミシャグチ」の音が転じたのでしょう。各地の御射山社にはミシャグチ様も祭られていて、諏訪大社と御射山社の深い関係も理解できます。流鏑馬など武術との関係は「御射」という言葉から連想し、武家が利用したのでしょう。

建御名方神の子孫といわれている諏訪氏が、上社の「大祝(オオホウリ)」を務め、最上位の神官として象徴的役割を担い、守矢家が実質的神官のリーダとしての神長官を務め、平和共存してきました。「大祝」制度と「神長官」制度は、明治維新で廃止されました。その後、諏方家(江戸時代、政教分離政策により藩主の諏訪家と大祝の諏方家に分離)は、直系15代に当たる弘氏が平成14年に55歳で亡くなられました。最後の「大祝」にあたる方だそうです。また現在の守矢家の78代目当主は東京で教員を務めている女性の方だそうです。神殿「大祝邸」は最近諏訪市が整備を進めています。

大社の周りにはミシャグチ様といわれる石などが祭られており、大神を守っている構図ですが、諏訪大社の主神は実はミシャグチ様であるとか、ミシャグチ様は大神の子供であるとか、様々な伝承があります。なお、前述のように上社には拝殿のみで、本殿がありません。出雲系の形式で、上社の南に聳える「守屋山」そのものがご神体となっています。

御射山に関係した新しい地名に1933年(昭和8年)に農業用水のため池として完成した「御射鹿池」があります。日本画東山魁夷1972年(昭和47年)の作品「緑響く」のモチーフとして有名な池です。諏訪大明神が狩りをする「神野」と呼ばれる場所にあり、ミシャグチ神に捧げるための鹿を射るという神事、御射山御狩神事にちなんで命名されました。諏訪地区では鹿は神への捧げものの意識があり、狩猟や食するためには諏訪大社から下される「鹿食免」が必要だったそうで、鹿は非常に大事にされてきたようです。

 さて、私が当地を最初に訪れた当時、茅野から白樺湖に行く諏訪バスは、車内アナウンスがあり、「御座石神社」の由来などを案内していました。「建御名方神」の母親である「高志沼河姫」が祭神で、高志(越)の国(コシ:現在の新潟県付近)から鹿に乗って大門峠を越えてきたときの鹿の足跡が残っているというところです。

諏訪郡の各神社は大社の御柱祭の前後、例えば10月頃などにそれぞれ小さな御柱祭を行います。プール平近くの林の中の諏訪社にも御柱が建てられています。白樺湖の島にある神社では、御柱を湖を渡して行くなど、独特な方法によるそうです。

茅野市中心市街地の東、大泉山のふもとを流れる柳川に、多留姫の滝(多留姫文学自然の里、茅野市指定文化財)と、そのそばに多留姫神社があり、建御名方神の子・多留姫神がまつられています。諏訪大社の七不思議のひとつに、葛井の清池(茅野市葛井神社)という伝承があり、多留姫の滝に椀などを流すとこの池に浮かび、さらに諏訪大社大晦日の神事のあと、この池にお供え物を投げ込むと元旦に遠江国(現在の静岡県西部)の佐奈岐池に浮かぶと伝えられています。

 諏訪大神タケミナカタが出雲でヤマト勢に破れて諏訪に逃れ、地元のモレヤ族との戦いに勝利した神話は何ゆえ成立したのかという解釈には、様々な考え方があるようです。神話の多くは全国規模の複雑なストーリとなっていますので、単に古事記や日本書紀の作者が作り出したのではなく、古代の経済状況や政治状況を下書きに、作者の立場(政権の視点)から事実を神話に置き換え書き換えたというのが、現在の解釈の主流的考え方のようです。どの説ももっともらしく、読んでいて楽しくなり、自分でも推理したくなります。

 その解釈の背景の中に、古代の「表日本」は日本海側であったということと、武器や農機具の重要な素材である「鉄の技術」の技術競争があるというものがあります。

 前者については、北九州―出雲―敦賀―三国―糸魚川(越)―新潟(越後)―信濃川―諏訪という文化の流れを考え、その中に例えばタケミナカタの母親が越(現在の新潟県)の出身という伝承の意味を捉えているようです。もちろんタケミナカタ自体もこの流れの中に見ることが出来るでしょう。

 尾張や信濃、越など東国は縄文文化を保持し、弥生農耕文化への抵抗が強たったようです。特に信州は今日まで西日本からの文化に対する抵抗が強く、仏教なども中々受け入れなかったといわれています。

 タケミナカタがモレヤ族との戦いに勝ったというのは、ヤマト朝廷側(朝鮮半島からの先進的製鉄技術を持つ)が出雲(砂鉄による古い技術を持つ)に勝ち(国譲り)、負けた出雲勢力が更に信州(さらに古い製鉄技術を持ち、それ故に製鉄に理解がある)に活路を見出したことを反映しているのだと解釈されています。諏訪湖の水は火山により金属成分が多いため、バクテリアにより水草の根に付着し、その金属成分(「スズ」と呼ばれた)から鉄を得る技術をモレヤ族は持っていました。タケミナカタはこの諏訪に逃れ、技術の面から勝利したという考え方です。

 タケミナカタの「ミナカタ」や「御柱」は、製鉄の小屋の構造と関係があるのではないかという議論もあるようです。また、上社にはスズ(鉄製)を使う神使御頭(ごうしおんとう)という神事があり、神使(おこう)が「佐奈伎鈴(さなぎのすず)」と呼ばれる鉄鐸(銅鐸と違い、赤く錆びている)を持って巡回に出かけたそうです。

 その他にも、信州と鉄を結び付ける事例が幾つか上げられています。古代には朝鮮半島の高麗などからの帰化人が信州に多く居住し、朝鮮語系の言葉が多く残っており、鉄関連の言葉の古代の朝鮮語で解釈可能という説もあります。たとえば「カル」は鉄を意味し、「長野」は「ナル(刃物) カル(鉄)」から転じたもので、軽井沢の「カル」なども砂鉄の出る沢などの解釈が出来るという考え方です。日本海側の地名でも同様の傾向が見られるということで、金属系学会全国大会での特別講演などでも取り上げられているとのことです。万葉集における信州の枕詞である「ミスズカル」ですが、「スズ」は鉄などの金属を意味し、「スズ」の付いた水草を刈るとういところから来たと解釈されるようです。

 実は「ビーナスライン」も鉄と深い関係があります。蓼科湖の裏に露天風呂の「石遊の湯」がありますが、その付近に鉄が出るということを信玄が発見し、それ以来この付近一帯で1945年まで鉄の採鉱が行われていました。エスポワールの向かい側、蓼科ビレジの旧管理事務所の裏手に鉄鉱石の貯留施設であるホッパーが残っているようです。戦前には採掘作業に当たる240名規模の捕虜収容所もゴルフ場付近にあったそうです。低品質のため現在では廃鉱になっています。「諏訪鉄山」と呼ばれ、鉱石は採鉱現場から花蒔までは索道で、花蒔から茅野駅までは「国鉄北山線」(12km)によりSLのC1266に曳かれて運ばれました。茅野駅東口広場にC1267が展示されているのはご存知だろうと思います。C1266の代わりに同型車として展示されたものです(そのC1266は再整備され真岡鉄道で2012年10月から活躍している)。そして、ビーナスラインは、主にこの鉄道の跡地に作られたのだそうです。


(私は、一技術者に過ぎず、ここに書いた分野に関しては全くの素人です。長く蓼科に親しんできた関係から、この当たりのことを理解したいと思い、地元の方から話を聞いたり、関連文献を読んだりしたものを、参考までに書いたものであることを申し添えます。誤解の部分があればご容赦ください。なお、どなたか動植物や地質など自然に関する蓼科近辺の情報をまとめていただけるとありがたいと思っています。)


• 諏訪大社7不思議:御神渡、元朝の蛙狩り、五穀の筒粥、高野の耳裂け鹿、葛井の清池、御作田の早稲、宝殿の天滴。しかし、実際には上社と下社で重複を含め別々に七不思議が存在し、計11個が存在する。


 




 

蓼科高原別荘地オーナー会
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